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7-1 篤姫と串間

篤姫と串間  

NHKの大河ドラマ「篤姫」みてますか

どうも、どうも、

投稿日時: 2008年1月13日  21:48:19

NHK大河ドラマ「篤姫」の原作、宮尾登美子作「天璋院篤姫」では、串間が出てきます。
篤姫が鹿児島を発って京へ行くのには福島の港(多分今町港か)から船出したとあります。「錦江湾を船で発し、垂水で上がってからはまた駕籠に揺られ、山道を越えて志布志を通り、串間の福島で船待ちのため、島津家篤姫様御休憩所と掲げた福島の町の旅籠「馬屋」に落ち着く。と出てきます。
旅籠「馬屋」とはどこにあったんでしょうか。東今町にある旅館か。

上記は串間市公式ホームページの掲示板に投稿があった記事です。
小説「天璋院篤姫」の作者、宮尾登美子さんはこの小説を書くために何年にもわたり現地調査をされ、篤姫一行は鹿児島を出発した後は志布志湾の福島港から船出し、大阪に向ったとの結論を出されたのです。
この小説のなかでは「篤姫様の参府にあたり、どの道筋を取るかについては総指揮向井新兵衛を中心に幾度も評定が開かれた結果、大阪までは海路を取ることになった。
この頃、民間の信仰となっている伊勢参宮の通行路はいくとおりもあったが、その一つをなぞり、錦江湾を渡って垂水から山越しをして志布志を通り、串間の福島から船出をする沿岸の日向細島、国東、下関では上陸して休息しながら瀬戸内海に入り丸亀を経て大坂へ着き、ここからはずっと陸路で京大坂でしばらく滞在したあと、江戸へ入る道は木曽路を通行という順路をとることにした」とあります。
また、NHKの大河ドラマ「篤姫」の今年3月16日放送分では、篤姫が錦江湾の船上で涙を流し両手をあわせて鹿児島と櫻島に永遠の別れをするところと太平洋の荒波に船は大きく揺れ、船酔いに苦しむところが放映されて、乗船した場所ははっきりした説明がありませんでした。


      篤姫の駕籠と供回り(NHKより)

当時の薩摩藩島津家の参勤交代の道順は鹿児島から出発してからは、今の国道3号線とほぼ同じ道順の陸路をたどり、中国路を陸路で北上するか門司より瀬戸内海を船で大坂に上陸する方法。
または、海路を使う方法としては、阿久根または薩摩川内の港から船出して、天草、有明の島伝いに関門海峡から瀬戸内に入る方法、または磯別邸から国分を通過して島津の分家である都城島津家に宿泊の後、今の国道10号線と同じ道順をたどり、日向の細島より乗船し、太平洋沿いを北上する黒潮の海流に乗り、国東半島沿いに瀬戸内に入る方法だったといわれます。

なぜ福島から船出したのか
小説「天璋院篤姫」の作者、宮尾登美子さんは、この小説では「垂水から山越しをして志布志を通り、串間の福島から船出をした」とあります。
では、当時の福島から船出したとある港はどこを指すのでしょうか。その港とは多分、福島の今町港であったと思われます。
江戸時代までは大きな船が出入りする港はその築港技術が貧弱で大規模な土木工事が出来なかった。そこで台風が避けられるような海が大きく入り込んだ自然の入り江を生かした港か、または大きな川筋の河口で、ある程度の深さのある自然を生かし海から直接着岸できる港であることが条件でした。
志布志湾では今でこそ長距離フェリーなどの大型船は志布志港から出入りしているが、江戸時代以前の荘園時代には本城川の河口の湊地区や崎田地区の港が当時の大型船の主要港であったが、時代が近世の藩制時代になると船も大型になり大きな川筋で大型船が直接接岸できる港は福島川、善田川、天神川、馬場川の4っの川が合流する河口の今町港が一番の良港となっていました。
当時の今町港は干潮時に7尺(約2.1m)の深さがあり、大阪航路に使用していた四本柱の大型木造船は湾外で満潮時に約10尺(約3m)以上の深さになるのを待って入港し着岸していました。
その今町港は南九州の特産品である砂鉄、塩、米、弁甲材などを運ぶ集積地で、港にはいまの税関にあたる潮見役という役人が秋月藩から派遣され船、物資の動きや人の往来などを取り締っていたそうです。
この時代より20年後の西南戦争の頃には今町港を守るため、今町の対岸の金谷の神社の境内には秋月藩が砲台10門を建築したとありますから、福島港が南九州では最も重要な港であった事のあらわれでしょう。
小説では「篤姫の一行は鹿児島を嘉永6年(1853年)8月21日明け方早く鹿児島を出発した」とありますから、鹿児島から串間までは約20里(80Km)の距離があり一日の歩行距離にしては遠すぎます。
姫は駕籠に乗ったにしても共廻りが付いて、相当な人数が歩行で付いていたでしょうから一日の歩行距離は30Kmから40Km程度と思われます。
鹿児島からは船で垂水に上陸したあと、垂水には島津家の四分家の一つの垂水島津家がありましたので、そこで一泊すれば垂水から串間までは約40Km、一日の歩行も可能な距離になります。朝早く垂水を出発すれば、その日のうちに福島にたどり着くでしょう。
また、当時の大坂航路の大型船は飫肥藩伊藤家の南郷の外ノ浦港からも乗船できましたが、飫肥藩と薩摩藩とは領土争いで約150年間も小競り合いを繰り返しており、薩摩の一行が飫肥藩内を通行することは出来なかったのだと思われます。
一方、串間は高鍋藩の秋月家が納めており、当時は高鍋藩から派遣されていた横尾潜蔵が串間の郡代官に就任していました。
秋月家と島津家とは豊臣秀吉の九州征伐のとき連合軍をつくり秀吉軍と戦ったが、共に負けて領地を没収されたり国替えの憂き目にあった仲ですから共に助けあおうという内諾もできていたでしょうから、島津家のお姫様一行の通行には事前に「姫が上京の際に通行する」と簡単な一報を届けるだけで済ませられる仲だったのでしょう。

福島で船待ちのため滞在したという旅籠「馬屋」とはどこにあったのでしょうか
  作家の宮尾登美子さんの小説「天璋院篤姫」では「串間の福島で船待ちのため、島津家篤姫様御休憩所と掲げた福島も町の旅籠“馬屋”に落ち着く」とあります。
一体「馬屋」という旅館が福島にあったでしょうか。
島津宗家77万石の大藩のお姫様が旅籠(今の旅館)みたいなところを利用するでしょうか。
島津家は串間にとっては藩制以前の荘園時代、野辺家が地頭で串間を治めていた頃から代々の宗主国でもあり、そのような方のお姫様を旅籠などに宿泊させるはずはありません。
風や潮の関係で出航を何日も待つことを余儀なくされたでしょうから警備の問題もあり、宿泊には福島の郡代官所(今の市役所)付近に居を置いている郡代官の横尾家の屋敷か、または、今でも今町に赤レンガの塀の家が残る回船業で富豪をなしたK家の屋敷だった可能性もあります。

本当のところ篤姫はどこの道を利用して江戸参府したのだろうか
 作家の宮尾登美子さんの「天璋院篤姫」 では、篤姫一行が鹿児島から江戸参府へは「大阪までは海路を取ることになった」として串間より船で都井岬をまわり太平洋を北上して国東半島から瀬戸内海へと辿っています


  日向灘を北上する篤姫乗船(NHK)

 一方、鹿児島県歴史資料センターの文献『天璋院 薩摩の篤姫から御台所』では、篤姫が鹿児島から江戸までの旅程については、「城下から西にむかい苗代川、川内を抜け出水で薩摩に別れを告げ、八代の海を左に眺めつつ陸路を北上し、熊本から北北東へ山鹿・久留米を通り小倉から中国路を経由して大坂、京の近衛邸に入ったのが十月二日。
京の宇治を見物し、伏見を経つ。十五日大井川を渡り、箱根を越えて鎌倉に詣で、二十九日江戸に入る」と全行程を陸路を通ったことになっています。
 我々、串間市出身者にとっては、作家の宮尾登美子さんの「天璋院篤姫」に出てくる串間より船出したとある方を信じたいですね。
いま、天璋院は上野の寛永寺に眠っています。その墓所には自由に行けますので、機会があったらお参りしてください。



 上野寛永寺にある 天璋院篤姫の墓所


                   参考文献;串間史談会報誌 
                           NHK出版「篤姫」                  宮尾登美子 天璋院篤姫
鹿児島県歴史資料センター『天璋院 薩摩の篤姫から御台所』
                                
文責 よしろう

追記    天璋院篤姫の作者、宮尾登美子さんは2014年12月30日逝去されました。
          ご冥福をおいのりします。               2015.1.10 よしろう
 

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