明治9年頃の日本は
西日本各地に明治政府の方針に異を唱える旧士族の不平分子による暴動計画が各地で発覚し明治政府はその鎮圧に忙殺されていた。
熊本の新風連の乱、福岡の秋月の乱、山口の萩の乱、佐賀の乱など明治以前には藩で碌を食んでいた武士が廃藩で平民と同様の生活を強いられその身分を保障しない政府に対し不満が爆発寸前まで達していた。
その様な時、政府の方針に反旗を翻し、鹿児島の野に下っていた西郷隆盛の存在と動向は明治政府としては一番気がかりなところであった。
そこで時の警視庁の総監であった薩摩出身の川路利良大警視は部下の薩摩伊集院出身の中原尚雄巡査以下24名を郷里鹿児島に帰郷の名目で帰し西郷の動向探査を命じた。
鹿児島私学校の生徒は官憲の中原を捕え、その自供から西郷暗殺の計画があることが発覚した。
私学校党は中原の自供書を基に明治政府尋問のため兵を上京させようとした。
野に下った明治維新の主役、西郷隆盛に対する明治政府の対応への不満、そして維新後、何かと冷遇を受けていた地方の士族たちの不平が西郷上京の行動によって刺激を受けた。

このような時、
旧高鍋藩の櫛間にあってはどのような動きであっただろうか。
西南の役における福島隊参戦については坂田諸潔(高鍋の人)を隊長とする福島隊133名中、輜重(物資補給が主な任務)隊の一員として出兵された吉松卓蔵翁(仲町の吉松邸の先祖、県会議員、福島村長)の戦闘日記を読むと次のように記してある。
この戦闘日記は吉松家当主吉松友比古氏所蔵による。

明治10年2月乱が開かれた頃、私は福島郡元にある郡代所(今の串間市役所)の奥にある藩校「正名舎」に在学中で、実家の市木の古都から離れて寄宿舎生活であった。
ある夜、寄宿舎で消灯後も山内誠三郎と机上灯で机に向かって一心に勉強をしていた。
突然、机の前に提灯を差し出す者があった。
それは当時、藩内でも有名な英雄である坂田諸潔で、彼は明治維新の戊辰戦争では高鍋隊の先鋒となって出軍し多くの手柄をたて、鹿児島の貴島清(邦太郎)や桐野利秋(維新の志士で幕府方に人切り半次郎と恐れられた中村半次郎)と知友であった。
当時、宮崎県も鹿児島県に含まれ、櫛間は鹿児島県第10区となっており、その区長(今の市長格)が坂田諸潔であった。
坂田は同級の川崎英雄を従え漢学の順助先生(山内求巳先生)の寝室に入るため、生徒が眠っている部屋を通り抜けようとした。
生徒たちは皆驚いてほとんどが飛び起きた。
その時、生徒の世良田太次郎だけが起きないのを見た坂田はやおら太刀を引き抜き畳に突き立てて「貴様!どうして起きないのか!」と一喝したので太次郎はびっくりして飛び起き、生徒一同は列座して彼に敬礼した。
彼は今回の西郷南州翁出兵の理由をとうとうと説き私たち青少年の奮起を促し、従軍に参加するよう説得した。
坂田は乱が開かれるとすぐに鹿児島に行き桐野と面談し挙兵を約束して、鹿児島県庁の大山県令(今の県知事)より挙兵の許可を得た。
こうして福島隊は高鍋隊とは別に独立した「福島隊」として結成された。

福島第1次隊出兵
その編成は次の通りで士族や平民で編成された。

総裁          坂田諸潔
小隊長兼参謀   山下謙蔵
小隊長       日高義正
半隊長       田中束穂
分隊長        古屋於兎七
分隊長       鈴木重弘
分隊長       河野麗水
分隊長       城 重利
監軍         田中 登
書記          野辺勘解由
輺重方       吉松卓蔵
輺重方       田中鷙雄
輺重方       加藤禎一
          山内武彦
          津野文夫
          世良田太次郎
兵数合計   120名
その他 夫卒 13名

明治10年2月27日早朝、坂田諸潔はこの福島隊を率いて櫛間から大分との県境の警備にあたる予定で高鍋へ向けて、郡代所(今の串間市役所)の中庭に集結して家族に見送られ、午後4時頃威風堂々と櫛間を出発した。
途中、北方の串間神社を拝した頃には夕暮れに近く、大束の奈留にさしかかる頃には先も見えない暗闇となったので第一日目を奈留の民家の軒先を借りて宿泊した。
第二日目奈留を出発して飫肥領榎原で榎原神社に拝し、鵜戸神宮では必勝祈願で参拝し、内海の鶯巣で二日目の宿泊した。
第三日目は宮崎泊、第四日目は高鍋に到着し、五日目まで高鍋に二連泊して旧藩庁へ届け出、知人や旧友などとの挨拶をした。
第六日目は都農泊、第七日目は美々津に到着した。

美々津は高鍋藩にとって重要地点で、耳川の河口には自然を生かした大きな港があり、高鍋藩主の江戸参勤交代時にはこの港から出帆して江戸参府に利用しており、また、今回の政府軍の予想される上陸地点でもあった。
ところが
この夜、鹿児島の貴島清が宮崎から津野常を伴って桐野利秋が大山鹿児島県令宛に送った書状を添えて手紙を届けてきた。
桐野の手紙には熊本の攻城にあたって兵の不足を告げ、一日も早く強力な兵を組織して送ってもらいたいむね書いてあった。
そこで坂田は美々津から急に進路を南西へ道を変え、3月9日小林を通り飯野泊、10日人吉泊、12日八代泊、14日熊本の川尻に居を構えていた薩摩軍本営に到着した。
坂田は直ちに桐野に面会し福島隊の守備陣地は安政橋と決定し、坂田は本営に残り本営から福島隊の指揮にあたることになり、福島隊は山下参謀が率いて熊本城内にいる鎮台の南入口にあたる薩摩街道の安政橋(今の熊本市中央区の国道3号線の白川にかかる長六橋)に向かった。

     福島隊の進路



安政橋に到着し一段落すると福島隊のなかで人心が動揺していた。
美々津での進路変更については兵士達は大いに不満であり、坂田諸潔が櫛間での募兵のときの説明では「今般、鹿児島の南州翁が政府へ問責のため、兵を率いて上京の途に就いた。途中で人民が動揺して騒動になってはいけないので、これを鎮撫することを県庁に願い出て許可を得たので出兵に参加する」と言う甘い言葉に素直に応じたもので、兵士たちはあくまでも人心保護のための出兵であり、戦いに行くつもりではなかった。
まして城内の政府軍の熊本鎮台と戦争することなど夢にも思ってなかった事である。
熊本城の鎮台の南の入口にあたるところの安政橋を守っていた福島隊は、守備着任より約1ケ月間は大した戦闘もなく、ただ敵と対峙しているだけであった。

ところが
4月8日熊本鎮台の兵が突如、安政橋の突破をねらって突撃してきた。
驚いた福島隊は思いもしなかった敵の猛攻に周章狼狽してたちまち混乱に陥り、激戦の末敵に押され竹宮(熊本市竹宮)の線まで後退した。
この戦闘で福島隊に50名の死傷者を出した。
それは福島隊にとっては約半数弱を失ったことになる。
坂田諸潔は川尻の薩摩軍本営で福島隊の苦戦を聞きつけ、安政橋に駆けつける途中、敵弾を腰に受けて負傷し熊本の二本木病院に担ぎ込まれた。
負傷した坂田はその後高鍋へ帰って療養した。


安政橋の戦い錦絵(WEBより)



一方、福島隊は熊本郊外の竹宮に退いたがここ「竹宮の戦い」で副隊長格の山下謙蔵参謀も敵弾で負傷し政府軍に投降した。
隊長と副隊長を欠いて約半数となった福島隊は田原坂の戦いで政府軍に敗れた薩摩軍主力とともに益城の木山(熊本県上益城郡木山)に退却した。
その後、御船(上益城郡御船町)の御船城争奪戦の「御船の戦い」にも敗れ、21日矢部浜町(上益城郡山都町矢部浜町)に撤退した。
そこから薩摩軍の主力隊は、人吉に南下したが、福島隊は九州山脈を超えて五ヶ瀬村から諸塚の七つ山、西郷村の田代を経て高鍋に引き上げ、そこでしばらく休養して兵を整え、山陰(東郷町)から田代(西郷村)の守備に就いた。
そこで大きな変化がもたらされた。
田代(西郷村)に滞在中、天皇から政府軍に賊軍討伐の勅使下向があったのである。
このことは薩摩軍は朝敵と見なされ、当然、これに加わった福島隊も朝敵となった事を意味しており、朝廷保護の目的で結成された薩摩軍が、志に反して朝敵となった。
しかし、官軍はますます兵力を増して前後左右から進撃してきたので福島隊は壊滅状態となり、ある者は山中に隠れ、ある者は投降し、残った者は命からがらに櫛間に帰郷した。

帰郷した福島隊の間では、坂田諸潔が途中美々津で変心して熊本に向かったことに対する憤慨から彼を暗殺しようという密談まで噴出した。
しかし、この密議はある者より高鍋にいる坂田諸潔に密告され彼の知るところとなった。
坂田は高鍋で銃創を療養した後、桐野利秋から日向募兵参謀を命ぜられ、いったん帰郷した福島隊の人士に対し、再度出陣するよう矢のような催促をしてきた。
しかし、福島隊の人士は一度その志が挫折し、あまつさえ朝敵の汚名を着せられたので再度の出兵を拒んだ。
坂田からは「もし命令を拒む者は、敵とみなし軍罰に処す」という脅迫には抗すべくもなく、第2回目の出兵が結成された。

第2次隊出兵
福島隊の生き残り数十名を含む180名が応募した。
そのうちの20名が櫛間の守備のため福島に残り、160名が第二次出兵隊として参軍し高鍋に向かった。
福島隊が高鍋に着くと案の定、坂田は「福島隊では自分を暗殺しようと謀議を図った疑いあり」と福島隊の吉松卓蔵、鈴木垣平を捕え高鍋城の島田門際にある籾蔵(現在も現存中)を仮牢とした牢に入れた。
その牢にはすでに高鍋藩の政府に抗することを否とする高鍋九烈士といわれる秋月種節(後に牢死する)、黒水、手塚、柴垣、萩原、滝沢、横尾、竹原、渡辺の九名と薩摩軍を大阪まで出船させるのを拒否した大分佐賀の関の3名が入牢しており、その牢を昼夜6名が交代で監視する厳重さであった。
しかし、坂田諸潔は薩摩軍の軍資金が西郷札の軍票を発行しても資金が底をついており、これら捕えた人士は富豪であることに目をつけ、幾らかの軍資金の提供があれば出獄の便宣を与えると暗に持ちかけてきた。
牢にある福島隊の人士は不合理な理由で死ぬより、この話に乗った方が良いのではと皆で協議し、軍資金百円(今の金に換算して約2千万円)の提供と「命令に従い従軍する」という誓約書を提出して6月29日出獄の身となった。
誓約した軍資金の提供は櫛間に使いを出し、指示に従い貯蔵米に換えて納付した。
以後、高鍋にあった福島隊は薩摩軍に合流し従軍したが、官軍の主力隊が延岡の細島に上陸し、薩摩軍への追撃は日増しに急で宮崎、高鍋も官軍に落ち、福島隊は細島平岩の山中に隠れていたが8月16日の薩摩軍本営を解散するとの報により、官軍に自首投降して官軍より取り調べを受けた後、一旦自宅謹慎を命ぜられ櫛間に帰郷した。

櫛間守備隊
一方、櫛間においては20名の守備隊と民間有志により、政府軍は志布志湾のどこかに上陸する予測のもとに今町港の対岸、金谷の港と金谷城址でに10ヶ所の砲台を築き警戒にあたった。
7月12日政府軍の別動第1旅団は鹿児島湾より大隅半島の根占港に上陸し、鹿屋を落とし高山より大崎に迫り、志布志より陸上を櫛間に展開してきた。
政府軍別動第1旅団は福島を抑えるため二手に分かれ進軍してきた。
一隊は志布志の郡代所から福島別れを通り奴久見を通る往還道(今の県道112号線)、もう一隊は陸路海岸線を通り福島に至る今の国道220号線で、一隊が夏井の関所を陸路進軍してくるとの報に櫛間の守備隊と民間有志は金谷より今町の七つ橋に移動して善田川をはさんで寺里側に展開して対峙した。
政府軍が七つ橋にさしかかった時に戦闘が開かれたが多勢の政府軍に櫛間方守備隊は総崩れとなり、政府軍は郡元に進軍して郡代所は接収され櫛間は政府軍に制圧された。
その後7月30日飫肥、都城も制圧されて政府軍は宮崎へ北上した。

坂田諸潔は形勢不利を悟って切腹しようとしたが、薩摩軍大隊長の池上四郎から北川(延岡市北川町長井俵野)にある薩摩軍主力隊は可愛岳を突破して鹿児島に脱出すると聞き北川の本営へ急いだ。
8月16日延岡北部の北川俵野の児玉熊四郎宅にある薩摩軍本営での西郷南州翁は、大分佐賀関より出港し大阪に進軍する機会を待っていたが政府軍の猛攻にこの計画は達成不能である事を悟り、全軍に対し薩摩軍の解散を宣言し、自分は大元帥の軍服および重要書類などを焼却して、これから鹿児島に向かって脱出することを宣言した。
退却には歴史的に有名な可愛岳の突破があり、8月の暑い盛りに日之影、椎葉、西米良などの九州山脈の山岳地帯をたどり小林、牧野から鹿児島に帰り、9月1日鹿児島の城山に立て篭もって官軍に抗戦した。
9月24日官軍の総攻撃で西郷翁は腰に敵弾を受け、東方の皇居を仰ぎ一礼して自害した。
残った桐野以下薩摩軍は政府軍に突撃をかけ全員が戦死または捕虜となった。
坂田諸潔は城山の戦いで第4師団の官軍に捕われ、その後長崎に送られ裁判に懸けられ打ち首となった。

このようにして隊伍堂々と櫛間を進発した福島隊も時に利あらず、このような連戦連敗の悲惨な最期を遂げたのである。

戦後、明治10年10月4日付けで政府より自宅謹慎中の福島隊に裁決の知らせが届いた。

総裁          坂田諸潔   死刑    長崎で斬首刑
小隊長兼参謀     山下謙蔵   懲役5年   情状酌量無罪
小隊長        日高義正   懲役5年  山梨県で獄中病死
その他の参戦者   全員         懲役3年   情状酌量無罪
 
この戦いにより、櫛間では以下の出費が西郷軍に提供された。

出兵者数      延べ314名(二重出兵者数を含む)
金銭        3,560円60銭(西郷札の軍票を含む)
               (今の金に換算して約7億1千万円)
米         24石

いま、福島隊として参戦して陣没した英霊の墓は串間市上小路の公民館の庭に眠っておられ、
また、鹿児島市南州神社の西南の役戦没者墓地の碑にはその「福島隊」として戦死者の名前が記してあります。

串間市上小路の公民館横の西南戦争戦没者墓地にはこの戦いの福島隊戦没者32名の墓標があり、その戦歴は下記の通りです。

内田伝次郎  大束奈留    二分隊軍夫として出兵 明治10年4月8日安政橋で戦死
松本民五郎  福島鹿谷    二番隊兵士として出兵       〃
津江 巌    福島上群元   四番隊兵士として出兵      〃
坂田民次郎  大束市之瀬   一番隊兵士として出兵      〃
深江専一   北方上乃坊   一番隊兵士として出兵      〃
河野半七   南方塩屋原   一番隊兵士として出兵      〃
水元五郎太  本城口広     四番隊兵士として出兵      〃
木島忠一   福島上群元   四番隊兵士として出兵      〃
河野 通    南方塩屋原   二番隊兵士として出兵       〃
島田豊吉   本城口広    三番隊兵士として出兵       〃
河野麗水   福島群元    書記として出兵           〃
日高真鳥   福島群元    二番隊兵士として出兵       〃
津曲 涼    福島群元   一番隊兵士として出兵       〃
松田盛吉   南方城の脇  一番隊兵士として出兵       〃
日高荒太   本城中園             〃
河野勝太郎  福島岩井田  一番隊兵士として出兵       〃
前田健吉   福島群元    二番隊兵士として出兵       〃
財津力尾   福島鹿谷             〃
内田周太郎  福島鹿谷   三番隊兵士として出兵       〃
長五弥太   本城湊     二番隊兵士として出兵       〃
古川正造   福島上町    三番隊付軍夫として従軍     〃
古屋助一   南方塩屋原           〃
清水 淡    北方羽が瀬  一番隊兵士として従軍  明治10年4月20日竹宮で戦死 
桑山末治   大束市之瀬  二番隊兵士として従軍  明治10年4月20日竹宮で戦死 
田中鷲雄   福島群元    機械方として従軍  明治10年5月28日安静橋で負傷後死
安田正紀           明治10年6月21日  菱田川の戦いで戦死
野津手泉蔵           明治10年8月10日 東臼杵郡山影で戦死 
隈田原又七  北方羽が瀬  明治10年8月10日 山影にて戦死  
平島宣道          明治10年9月24日  鹿児島城山にて戦死
桑山市平        明治10年10月27日 大崎菱田川の戦いで戦死
河野乾七                    〃
野辺峰吉  福島群元 四番隊付軍夫 明治10年11月27日宮崎の蓮ヶ池で病死
田中 登   福島群元 監軍として従軍   明治11年2月15日岩手県で獄死
日高義正  福島上町 副隊長兼小隊長 明治13年8月8日 山梨県で獄死

串間市上小路にある福島隊戦没者墓地(WEB西南役余話より)

 
                                                                                                       以上

                       文責:よしろう(東京町田市在住)
                     ja6fut599■gmail.com
                         (メールのさいは■を@マークに変更下さい)


          参考文献; 串間市歴史研究会会報
                 串間市郷土史
                 松田禎雄福島郷土史
                西南戦争延岡隊戦記
                高鍋町郷土史 
                 檜垣三樹雄串間地名考
                吉松友比古氏所蔵「吉松卓蔵戦中記」
                 松田大次郎「福島の歴史」
               

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