明治元年(1868年)4月 大政奉還した将軍徳川慶喜は恭順の意を表したが、東北地方の藩すなはち会津、仙台、荘内、米沢などの諸藩は奥羽連合して官軍に抵抗した。
特に会津藩は幕府軍の中核として鋭く対立した。
そこで江戸の官軍は上野で抵抗していた幕府側の彰義隊の敗者を追って東北街道を進撃するとともに、一部官軍は京都から北陸路を通り越後口を経て、会津を背後から攻めることになり越後出羽の諸藩と戦った。
このような時、高鍋藩はどのような態度であっただろうか。
高鍋藩は外様大名であったが藩主の弟で世子である秋月種樹<あきづきたねたつ>が幕府内で若年寄格になるなど徳川幕府内でも名声が高かった。
そのため政局にも敏感で、幕末からの混乱の中で情報収集を行い、戊辰戦争では新政府軍として出兵した。
これは正式には北越遠征討軍として、仁和寺(小松の宮)が兵部卿総督となり、西園寺公望を総参謀とし、これに従うものは高鍋藩のほか薩摩、長州、加賀、広島、明石、福知山の諸藩総勢1千余名であった。
 京都在任中の高鍋藩主の秋月右京亮(秋月種樹)に総督の宮より越後出征の命令が発せられたのは明治元年5月であった。
当時、高鍋藩主秋月公は病体であったため、高鍋藩は武藤東四郎を総司令に、鈴木来助を隊長として4分隊夫卒人夫を合わせて111人の部隊で編成された。
高鍋藩の福島(串間)地方からの出兵は下記の24名の士族が高鍋藩に加わって出兵した。

1、戊辰戦争出征の福島(串間)人
       教導     日高柳助        福島群元
       第4押伍    鈴木喜之助       福島郡元
       喇叭     山内亀三郎       北方屋治
       旗手     川崎源蔵        市木
       医師     鈴木良敬        南方金谷
       第1分隊    大坪貞二        市木
               隈田原良次郎     北方
               松田充平次       南方塩屋原 
               蓑輪作太郎       都井
       第2分隊    河野太人        南方塩屋原
               門川彦太郎       都井
               清水八十吉       南方塩屋原      
               深江助九郎       北方上之坊
       第3分隊    松田仲治        南方塩屋原 
               慈恵坊          福島郡元
               山崎幸之助       崎田   
               松田平左衛門     本城千野
               島田豊吉        本城
       第4分隊    清水加太郎       北方羽ヶ瀬
               田中芳衛        市木
               水元庄七        本城
       他、人夫    3名

 以上の福島からの出兵者は本城川の河口の湊に集合し、本城千野の諏訪浜沖に停泊中の大型船に乗船するため、湊港から伝馬船で出航し諏訪沖の大型船に乗船した。
大型船は南風を受けて都井岬を回り、日向灘を北上し途中、美々津港に寄港し高鍋隊の本隊も乗船し瀬戸内海に入り大阪に上陸し京都に集結していた出羽征討軍に従い、越後に進軍し新潟、新発田、などに転戦した。
 この越後の地で実際に戦端が開かれたのは7月でこれを迎え撃ったのは新発田、庄内、米沢の各藩であり、家老河合継之助を擁する長岡藩の一部もこれに加わった。

2、越後での戦闘
高鍋藩のこの遠征における記録に残る大きな戦闘は下記の3か所であった。

 2-1)信濃川をはさむ攻防戦
7月19日信濃川をはさむ新潟寺の戦闘で、福島隊の本城千野の松田平左衛門は負傷。
帰郷して療養したが明治5年(1872年)2月24日その傷が元で死去した。

 2-2)越後山熊田の戦い
8月28日新潟郊外の峻険な山熊田(村上市山熊田)の戦いでは、 六つ半時、台場の前後左右より進撃す、互いに応戦激しく相手方の死傷者は20人ほど出た。
我が方も即死者6人(そのうち福島隊塩屋原の松田充平次を含む)
      負傷者6人(そのうち福島隊上乃坊の深江助九郎を含む)
がでた。
高鍋隊の小隊長の福崎良一も身に3弾を受けて、再起不能であることを自覚し割腹して自決して果てた。

 2-3)関川の戦い
越後の戦いで最も激しかったのは山形と新潟の国堺にある要害の地 関川の戦いである。
庄内兵を中心とする敵兵300人と高鍋藩の存亡をかけ、彼我の攻防、激闘は9月11日から6日間にわたり、隊長の鈴木来助をはじめ高村久蔵、杉遼太郎もここで戦死し、その他負傷者が続出した。
多大の犠牲を払いかろうじて敵兵を敗走せしめ、やがて庄内藩、米沢藩降伏の端緒となった歴史的な戦闘であった

これが戊辰戦争、越後の戦いである。
 この越後の戦いはこの年の10月に戦闘も終わり高鍋藩も京都に凱旋した。
12月には高鍋に帰郷したが翌年の明治2年には廃藩置県で高鍋藩は消滅したのでこれが藩として最後の出兵となったのである。
  この越後方面への出兵では、高鍋藩は親戚藩である米沢藩が投降する仲介も行った。
藩主秋月種殷<あきづきたねとみ>は賞典禄8000石を与えられた。種樹は明治維新直前に天皇の侍読になるなど、新政府内でも役職に任命された逸材であったから、時局に対応できたのだろう。

3、 護国神社(戊辰の役戦没者の墓)
戊辰戦争での戦没者は福島上郡元の北端にある劔城<つるぎじょう>に葬ってあり、ここを護国神社とした。
ここは古墳時代(紀元300年~600年)からの古墳(前方後円)であり「劔城の古墳」という
なぜ、古墳の上に戊辰戦争戦没者を埋葬したかというと当時の人はこの地が郷人古墳の重要な地であることを熟知していなかってからで、戦没者を埋葬するにはここが広い丘陵地で埋葬には最適地であるとして選び、戦死者を祀ることにしたと思われ、明治元年戊辰戦争越後の役で戦死した高鍋藩士福島出身の3名をここに葬むったのである。

その墓標には下記がある
松田充平次貞克  戊辰の歳明治元年8月28日越後国山熊田の役にて戦死。
            越後の地、新潟公園に葬つたが、その埋葬時に遺体から
            指の爪を取り、持ち帰って ここに埋めた。  歳26歳
            南方塩屋原の人
松田平左衛門   明治元年7月29日越後新潟の役に銃創を被って帰郷、
            明治5年2月24日に至りその傷か元で死去した。歳39歳
            本城千野の人
深江助九郎     戊辰の歳、松田充平次と同日同場所で銃創を蒙って帰郷、
            翌2年10月11日その傷が元で死去した。年33歳
            北方上乃坊の人 

この護国神社では太平洋戦争の終戦前までは靖国神社の分霊として、毎年10月15日の例祭当日には県から共進使が来て盛大な式典が行われていた。
また、新潟の新潟公園には高鍋の戦死者小島和兵衛外9名とともに、この松田充平次も佐土原藩、薩摩藩の戦死者とともに祭祁されている。
この劔城の墓の上方に招魂碑がある

                                以上




                   文責:よしろう
                       ja6fut599■gmail.com
                     (メールのさいは■を@マークに変更下さい)

                 参考文献; 高鍋藩史話
                        松田禎雄福島郷土史
                        檜垣三樹雄串間地名考
                        松田大次郎「福島の歴史」 


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高鍋隊として出兵された111名中
串間から出兵された24名の福島隊の戊辰戦争戦闘記

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 よしろう
(福島下仲町出身)

わが郷土 串間市の歴史


戊辰戦争における福島隊
                                       
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